「私たちを愛してくださる方」
- Masato Ujiie
- 2017年5月13日
- 読了時間: 2分
春になり、私の職場にも高校を出たての若者が配属されました。彼は、地方の村の出身者で、仕事と生活の両方で慣れない環境の中で頑張っています。
筆者は生まれも育ちも札幌ですが、気がつくと私のいるチームは、札幌以外の道内市町村の出身者ばかりであることに気づきました。札幌は出生率は低いけれども、仕事や学校のために移り住む社会的な人口増により、都市の活気が維持されていると聞いたことがあります。
そういう意味で、受ける側の都市にいる者としては、せっかく育てた若者を送り出す地方側の痛みに思いを致し、感謝の気持ちを持たなければいけないと思わされます。
このような現実から、家庭や個人についても考えさせられています。一人の人を育てるには、家庭や社会での大変な労力が必要です。私の家庭にも小さな子どもがいますが、衣食住の環境を整え、健康や安全に注意し育てていくのは大変なことです。
子どもを育てる親の労力は決して小さくはありませんが、それでもなお、毎日の子どもの心身の成長には驚くばかりで、人の力だけでは決してこうはならないだろうと思うことがあります。聖書にはこうあります。
「・・・あなたを形造った方、主はこう仰せられる。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:1、4)
聖書は、人に命を与え、愛し、守り、養い育ててくださる神様の存在を教えています。一方でそのような神様を知ろうともせず、感謝もせずに生きているのが私たちの姿であるとも教えています。
親に感謝するのが当然のことであるとするならば、神様に感謝することも自然なこととは言えないでしょうか。
聖書は私たちを愛しておられる神様からのメッセージに満ちています。一度聖書を手にとってご覧ください。どのように聖書を読むとよいか分からないという方は、HfBの聖書研究サービスをご利用ください。
(2017年 通巻274号)
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